FIREして最初の1年【前編】
カーテンを開けた朝と、「DIE WITH ZERO」への違和感
こんにちは、前田嘉一です。
2022年11月12日にFIREしました。
その翌朝は、目覚まし時計もセットせずいつもの7時に目が覚めました。
最初にしたことは、自分の手で何年かぶりにカーテンを開けることでした。
快晴で太陽の光が眩しかったです。
目がくらみましたが、秋の快晴はここちよく、こんなに太陽の光がありがたいものかと改めて思いました。
「近所を太陽の光を浴びて歩きたい」
これがFIREして自分の意志で最初に心からやりたいと思ったことでした。
窓際族時代は次の朝が憂鬱で嫌でした。
でも、その憂鬱な気持ちを一瞬で変えてくれたのが太陽の光でした。
すがすがしい気分になり、うきうきして興奮したのを覚えています。
憂鬱な朝からの解放。自由になりました。
でも、しばらくして気づきました。
「この自由で、私は何をするのか」という問いが来ました。
私のFIREは「お金のため」ではなく「居場所を守るため」だった
普通のFIREでは「○億円や○千万円を貯めること」を目標にしてFIREする人が多いようです。
でも私は違いました。
単身赴任を伴う昇格人事の辞令が来て、私が一番大切にしていた地域で子供たちにスポーツコーチをしている居場所がなくなることが嫌でFIREしました。
もし土日の休みが安定していたら、FIREしませんでした。
お金より好きな居場所を守るためのFIREでした。
そのとき、すでに税引きの生涯賃金分の2億円は手元にありました。
このことを誰にも言わず、隠れ資産家として会社でいました。
会社は退職届をすぐに受理してくれました。
もう新しいところで一から会社のために頑張りたくはありませんでした。
私は全然さみしくもありませんでした。
むしろ清々してすがすがしい気持ちでした。
「本当の自分への旅路」の始まりを何も決めていない状態でした。
振り返ると私は21年間の窓際族と隠れ資産家として、「本当の自分」を一度も表に出したことがありませんでした。
だからFIREしても、出すべき「本当の自分」が見つけられなかったのです。



第1章:「DIE WITH ZERO」との出会いと、違和感
散歩の途中の喫茶店で感じた「何か違う」
FIREして最初の1年すぐに「DIE WITH ZERO」という考え方を知りました。
人生において亡くなる直前が一番お金持ちなのではなく、元気なうちにお金を使い切るという考え方です。
XやInstagramに「贅沢な体験に使い切る」という投稿をしている人を見て、憧れるところもあります。
でも、ゆっくりと考えると私には合わないのがわかりました。
最初のころ、散歩の途中でちょっと高めの喫茶店でケーキセットを食べてみました。
でも何か違和感があったのです。
SNS用に写真を撮っているとき高揚感はありました。
でも帰宅したあとに残ったのは、
- 自己満足
- 自分は何者でもない
- 誰からも感謝されないという
さみしさや静寂だけでした。
これからも孤独が続いていくのが分かるのです。
「モノクロの細い線」から「原色と太い実線」の世界へ
私は21年間、窓際族として人目を気にして生きてきました。
会社では誰も目を見て話してくれず、「ありがとう」の一言もありません。
まるでモノクロの細い線で描かれたような、血の通わない職場でした。
でも、息子が所属したことがきっかけで関わった子供たちのスポーツコーチの場所は、全く違いました。
子供たちは私の目をまっすぐ見つめ、私を信じて話を聞いてくれます。
心からの返事や感謝を返してくれます。
自分はダメな人間だと思っていましたから、最初はすごく戸惑いました。
無視され続けることに慣れた私には、信頼されることのほうが恐ろしかったです。
でもだんだんとそこは、鮮やかな「原色と太い実線」で描かれた世界になっていきました。
窓際族のときには知る由もなかった
——「他人に信頼され、感謝される」という生きがいがあったのです。
「元気なうちにお金を使え」ではなく「元気なうちに恩返しをしろ」
豊かな人生の終わり方を説く「DIE WITH ZERO」には「元気なうちにお金を使い切れ」とあります。
しかし、私は違うのです。
「元気なうちにお金を使え」ではなく、「元気なうちに、もらった恩を返せ」。
私の心は、明確にそちらへと傾いていきました。
私は東大阪の路地裏で、地域の人たちに温かく育ててもらいました。
その記憶が根底にあります。
だからこそ今、この地域・この場所への貢献を何よりも優先したいのです。
「DIE WITH ZERO」の考え方で地域にお金だけを渡しても、それは冷たい施しになってしまうかもしれません。
だから私がコーチとして子供たちにしたように、若いうちに「時間」と「経験」という血の通ったリソースを投入したかったのです。
「DIE WITH ZERO」は個人の人生を最大化するという点では正しいと思います。
でも、社会との関係性や恩返しという視点が見えにくいのです。
そのため、私のような「他人と深く繋がりたい」という恩返し哲学を持つ人間には、受け入れにくいところがあります。
必要とされる場所があることが、最大の救いだった
私にとっての救いは、居場所を守るためにFIREしたことは「必要とされる場所がある」という事実そのものでした。
窓際族時代、私は「必要とされない自分」を抱えて毎日通勤していました。
あの頃の私にとって、終わりのない日々は拷問でした。
しかし今は、この同じ「終わりなさ」が特権になりました。
恩返しが永遠に続いていくこと。
「自分が消えても、灯した光はどこかの子供や地域の中で残り続ける」という希望の裏返しなのです。
DIE WITH ZEROが「自分のために使い切る」ことで自己を完成させる哲学だとすれば、私は「自己を他者への恩返しとして流し込み続ける」ことで、自己が他者によって再定義されていく。
——そう感じています。



まとめ:FIREして最初の1年で気づいたこと
カーテンを開けた朝、「この自由で何をするのか」という問いが来ました。
DIE WITH ZEROは私には合いませんでした。
体験を買う贅沢より、恩返しする時間の贅沢のほうが、私らしかったからです。
次の記事では、私のメンター竹田和平さんとの御園座での出会いと、「旦那道」という哲学がどう私のFIRE後の人生観を形作っていったのかをお伝えします。→【中編こちら】


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