府中市の東京エレクトロンを初めて訪問した日、1997年【前編】
2026年の株主総会と、夜の高速を走った理由
こんにちは、前田嘉一です。
2026年6月、私は東京エレクトロンの株主総会に出席しました。
株主として質問の機会が来たとき、私は、
- 1997年から東京エレクトロンを知った経緯
- 2004年に株を買ったこと
- リーマンショックで買い増ししたこと
- 長期保有してFIREできたことを
報告して、御礼を言いました。
FIREしてからずっと思っていたことでした。
東京エレクトロンに、きちんと言葉にして声を出して御礼を言いたい。
でも機会がなくて、心の中でモヤモヤとしたものが残っていた。
その機会が、やっと来ました。

社長が、私の目を見て話してくれた
質問中、社長は終始きちんと私の目を見て対応してくれました。
御礼を言い終わると、社長だけでなく壇上の役員からも「長期保有して応援いただき、ありがとうございます」という言葉をいただきました。
中にはわざわざ立ち上がってくれた役員もいました。
この瞬間、私の中で何かが解けました。
日本第2位の時価総額まで成長した東京エレクトロンの社長が、私の目を見て応対してくれた。
それは単なる礼儀ではなく「あなたという人間を、一人の人格として認めています」というメッセージとして受け取りました。
これが「人間としての尊厳」が回復した決定的な瞬間でした。
窓際族21年間、誰も目を見てくれなかった
なぜそこまで感じたのか。
私は2001年から2022年まで、21年間窓際族でした。
その間、勤務先では誰も目を見て話しかけてくれませんでした。
空気のような扱い。
でも当時はそれが当たり前で、私も何とも思わなくなっていた。
投資のことは会社では一切話していませんでした。
だから数字という成果も、誰にも見えない場所にありました。
東京エレクトロンの株を長年握り続けていると、感謝と孤独が同時にありました。
「この会社のことを信じている」という確信はある。
でもそれを誰かに認めてもらったことは一度もない。
その孤独が心の奥にモヤとして残っていました。
今回、社長と役員たちに「対等な人間」として扱われたとき、その21年分のモヤが一気に晴れました。
窓際族として空気のような扱いを受け続けた21年間の雪辱を、投資家として精算できた瞬間でした。
これが、今回の記事を書いた理由です。
すべての出発点は、1997年の夜の高速だった
この株主総会での体験を今振り返ると、出発点は2004年の株購入ではありませんでした。
2026年7月1日、東京エレクトロンは上場来高値81,260円をつけました。
私が最初に買った2004年の2,330円から35倍近く、買い増しを続けて平均取得価格を下げ、今は50倍以上になっています。
でも、本当の出会いはもっと前です。
1997年、大阪から夜の高速を一人で走って、府中市のビルを初めて訪ねた日。
あの日に私の中に何かが植えられました。
それが
- 7年後の購入につながり
- 21年後のFIREにつながり
- 29年後の株主総会での御礼に
つながりました。
第1章:夜の高速を一人で走った理由——「認められたい」という弱さ
長野・北陸から東京へ
1997年、入社6年目のとき、私は重要エリアである東京地区の担当になりました。
それまでは長野や北陸という地方を担当していました。
1社と1社の距離があり効率が悪く、掘り起こしの余地も限られていました。
仕事に慣れてさらに上を目指したい者にとっては、物足りなくなるエリアでした。
それでも私は根性と体力でどぶ板営業を続け、ノルマはクリアしていました。
数字が上がっていたので、前任の担当者はすべてぼんくらに見えていました。
東京担当の先輩社員も同じに見えていました。
この先輩社員が上司に対して米つきバッタのようにペコペコしているのを見るのが嫌でした。
でも後に窓際族になって10年してからわかったのですが、それは根回しと細かい報告、会食やゴルフという社内交際費のおこぼれをもらうためでした。
これが勤務先で生き残るためのルール、出世していくルールだったのです。
当時の私には、自分の意志をなくしてペコペコする姿がバカに見えていました。
でも実際に出世したのはその先輩社員で、私はその空いた東京エリアの担当になりました。
自社株という不良債権と、新婚生活という現実
東京担当になった1997年、同時にいくつかの現実が重なっていました。
入社以来ずっと天引きで買い続けていた自社株が、一度もプラスにならない完全な不良債権になっていました。
天引きされた総額が600万円くらい。チャートは右肩下がりのまま。
配当もなし。
さらにこのころ、今の妻と結婚して所帯を持つ前後でもありました。
「男気」という幻想が崩壊した瞬間でした。
自社株という不良債権と新婚生活という足かせがある。
このままではいけない。
私は初めて「冷徹な現実」と向き合いました。
- 前担当を目に見える売り上げで超える
- 東京の客先で信頼され可愛がってもらう
- 純粋に数字によって自分の存在価値を証明したい
そういう気持ちが心の奥底にありました。
「衰退する世界から、未来の世界へ」という無意識の願望
東京エレクトロンは、当時の勤務先とは取引がありましたが、売り上げは月に10万円前後。
中〜小ランクの位置で、費用対効果を考えて誰も訪問したことがないという先でした。
私の勤務先は高速道路や橋梁などのインフラが発達すると衰退していく企業で、ハイテク関連の東京エレクトロンとは商売領域が違っていました。
社内での興味はゼロでした。
でも私はそういうところほどチャンスがあると思っていました。
とりあえず訪問して、可愛がってもらってから考えていく。
まずは名刺交換から。これが当時の私の営業ルールでした。
その1件目が府中市の東京エレクトロンでした。
朝9時、多摩川の川沿いにありました。
ここに行くために、真夜中に大阪から東京へ一人で車を走らせました。
- 東京で1件でも多く訪問件数を増やすため
- 名刺交換の枚数を稼ぐため
- 今まで訪問したことがないところまで訪問すべく
根性と体力でどぶ板営業を始めました。
- 東京で結果を出せば人生が変わる
- 上司や先輩社員やまわりに認められる
- 弱さを払拭したくて
夜の高速を走ったのです。
今思うと、私は衰退する世界(インフラ・先輩社員)から未来の世界(ハイテク)へ、自らの人生を賭けて移り住みたいという無意識の願望を持っていたのかもしれません。
当時私が訪ねたのは「顧客」ではなく、自分が属すべき新しい世界への入り口だったのです。



まとめ:弱さが、夜の高速を走らせた
- 東京担当への異動
- 自社株という不良債権
- 新婚生活のプレッシャー
- 先輩社員への嫌悪
これらはすべて「弱さ」から来ていました。
- 強かったなら、夜の高速を一人で走る必要はありませんでした
- 強かったなら、誰も行ったことのない先に名刺交換に行く必要はありませんでした
- 弱かったから、走りました
- 弱かったから、訪ねました
その弱さが、1997年に府中市の東京エレクトロンのビルへの扉を開けることになりました。
次の記事では、そのビルで感じた「光と音」の衝撃と、7年間その記憶が消えなかった理由をお伝えします。→【こちら】





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