東大阪の路地裏で誓ったこと【前編】
町工場の街で育った少年が「お金持ちになりたい」と思った日
こんにちは、前田嘉一です。
私は1972年から1990年まで、18年間、東大阪市に住んでいました。
そして幼稚園から大学4年まで、この街が私のすべてでした。
さらに東大阪の路地裏には、独特の匂いがありました。
機械油と金属が混ざったような、どこか懐かしい匂い。
放課後、ランドセルを背負って帰る道に、工場の音が響いていました。
旋盤機で金属を削る高い音、傘の骨を組み立てるプレス機の重い音。
大人たちは油で汚れた作業着のまま路地を歩いていました。
そして子供は服に油をつけると洗濯で落ちないと怒られながら過ごしました。
大人と子供が交わる場所は、近所にある駄菓子屋と定食屋が一緒になった店でした。
そしてピンボールやアーケードゲームがあり、子供は遊び、大人は定食やお酒を飲み、サンテレビで阪神タイガースのナイターを見る。
そういう街でした。
この路地裏の少年が、1990年から35年後に資産4億円になりました。その原点がここにあります。

第1章:東大阪という街——工場と人間の記憶
家族経営の町工場が並ぶ街
東大阪という街は、お父さんが社長、従業員はお母さんだけという家族経営の町工場が多い街でした。
金属棒を削ってネジを作ったり、傘の骨を組み立てる工場が多かった。
そして納入先はフセラシや三和鋲螺だったと記憶しています。
私の家はサラリーマン家庭でしたから、家族経営の工場ではありませんでした。
でも放課後は友達の工場に入り浸り、毎日その世界を見ていました。
青いタイタンと黒いドラム缶
印象に残っているのは、納入先の青色のマツダ・タイタンという1トントラックに、重たい木箱に入ったネジを積んで出荷する風景です。
そしてそのトラックも木箱も機械油で黒くなっている。
さらに出荷後には工場の玄関にある空のドラム缶の中に、削りカスの金属が満載されていました。
発注や商談は、少し小ぎれいな作業服を着た人が白いサニートラックでやってきます。
そしてこの人が来た後に、その内容が駄菓子屋兼定食屋か井戸端会議で話題になる。
だから子供にも「この人がキーマン」とわかりました。
儲かっている工場は、ドラム缶を見ればわかった
どこも家族で同じような規模の工場でしたが、儲かっているかどうかは、トラックが来る頻度や玄関のドラム缶の金属削りカスの量でわかりました。
そして自分でわからなくても、駄菓子屋兼定食屋や井戸端会議でわかりました。
さらに儲かっている工場の社長は羽振りがよくて、子供に奢ってくれました。
私はまだ子供でしたから、近所の奢ってくれる社長が大好きでした。
儲かっていそうな社長に懐くことも身につけました。
ぼんやりと、お金の威力と魔力がわかり出してきました。
「誰が偉いか」——社会的な序列への最初の気づき
ある日、気づいたことがあります。
- 家族工場の社長
- 納入先のトラックの運転手
- 商談する小ぎれいな作業服の人
- そしてその人が「社長に聞いてみる」と言う社長
——この4つはランク分けされていると。
できれば商談する人、そして納入先の社長になりたいと思いました。
そして同時に「酔ったおっちゃん」や「社長社長という人」にはなりたくないと強く感じていました。
私が「誰が偉いか」「誰がお金を多く持っているか」という社会的な序列に気づいた瞬間でした。
そして「お金持ちになりたい」という表面的な欲望の芽生えでした。
第2章:お金持ちと貧乏の違いを目で見た——子供の観察
羽振りのいいおっちゃんが、仕事がなくなると変わった
小学校のころ、私が思うお金持ちとは、駄菓子屋兼定食屋で菓子やアーケードゲームを奢ってくれる羽振りのいい「近所のおっちゃん」(家族工場の社長)でした。
でもこういう人は、仕事がなくなると途端に機嫌が悪くなるのです。
いつもサニートラックの小ぎれいな作業服——「偉いさん」と呼んでいた人——の悪口を言っていました。
仕事の量や単価での相違でした。
ある日、羽振りのいい「おっちゃん」と「偉いさん」が定食屋で食事をしていました。
偉いさんの口癖は「社長に聞いてみる」で、何でも「社長が‥」でした。
私は子供心に「社長」というものがどれだけ偉いのだろうと感じました。
そして社長になって、この近所一帯の羨望の的になりたいとぼんやり憧れました。
同時に「酔ったおっちゃん」と「社長社長という偉いさん」には絶対になりたくないと思っていました。
スーパーカーブームと、私立中学に消えた友達
1978年ごろ、小学校高学年のころに「スーパーカーブーム」がありました。
そして近所にカウンタックやフェラーリに乗っている人はいませんでしたが、アメリカのリンカーンやドイツのベンツ・BMWに乗っている人はいました。
ほとんどが地元の不動産や土建屋の社長でした。
車のマークを見ただけで「この家はお金持ちだ」と子供心に理解できました。
そして、その家の子供とは小学校のころ一緒に遊んでいましたが、中学校で私立の大学付属中学に行くのです。
うらやましいよりも、取り残された感がありました。
我が家では私立中学という話はなく、偏差値どうこうよりも、どうすれば行けるのかさえも知りませんでした。
この時に「あの家には何かが違う」と感じました。
階層のピラミッドを認識したのです。
もうすでにピラミッドでは選別されて差がつけられていた
——そのひがみを強く感じました。
社長はお金持ち。
お金持ちになるには、こういう社長になること。
でも、お金持ちへの成り方はわかりませんでしたが、成れるとは信じていました。


第3章:「お金持ちになりたい」と誓った日——YASHICAと稲盛さんの話
1982年、中学2年生のある日
記憶に残る「お金持ちになりたい」と誓った日は、中学2年生(1982年)のころです。
我が家のカメラ「YASHICA」(ヤシカ)が京セラに買収される話を父親から聞いた日のことです。
そして自宅の自転車置き場で、父親が家のカメラのYASHICAというロゴを指さして言いました。
「これからここが京セラに変わる。稲盛さん(京セラ)がますます大きくなって、ますますお金持ちになっていく。」
近所ですごい人といえば、会える人では市議会議員さん、会えない人ではプロ野球選手を除けば松下幸之助・稲盛和夫でした。
九州出身の人も多かったので稲盛さんは特に人気がありました。
中学生でもフルネームは知らなくても京セラの名前は知っているという感じでした。
「カメラを買うのではなく、カメラ会社を買う」
我が家の唯一のお宝はカメラ。
父親の自慢と趣味は「YASHICA」カメラで家族を撮影することでした。
そしてそのカメラ会社の株を京セラが買い、稲盛さんのものになった。
父親は「これからは京セラがますます伸びていくだろう」と言っていました。
そしてこの瞬間、「株で会社を買う」ということが理解できました。
「お金があれば何でもできる」と感じました。
名誉も憧れもすべて手に入れられる。
カメラを買って喜ぶのではなく、カメラを作っている会社を買う
——そのスケールの違いに憧れました。
お金持ちになりたい。
そのためには社長になるか、株を買う。
このゴールへの図式は理解できました。
でも2つとも具体的なやり方がわかりませんでした。
まわりにはそういう人は全くいませんでした。
住んでいる階層が違っていたのです。
「誰にも言えなかった誓い」が原点になった
そして、お金持ちになりたいという欲求よりも、もっと深いところにあるものに気づきました。
- 見下されることなく自由になりたい
- 誰にも頭を下げなくていい場所に行きたい
——という感覚だったかもしれない。
階層の違いによる無力感から、資本の力で自分自身の世界を支配したいという強烈な自己肯定欲求に変わっていきました。
でも、やり方がわからない「恐怖」と、近所のおっちゃんたちにはならないという「野心」が根底に芽生えていたのも事実です。
でも、「お金持ちになりたい」というこの誓いは誰にも言いませんでした。
友達にも家族にも言えませんでした。
なる方法が全くわからず、目標があまりにも大きすぎて「言うと笑われる」という感覚があったから。
そしてこの「誰にも言えない誓い」が、心の底の潜在意識に確実に残り、後の投資への静かな執着の原点になっていきました。



まとめ:路地裏の少年が見ていたもの
東大阪の路地裏で、私は3つのものを見ていました。
- お金の威力と魔力
- 階層のピラミッドと自分の位置
- そして「誰にも言えない誓い」
この3つが、35年後の資産4億円の原点でした。
次の記事では、友達の家族工場で見た「光と音」の衝撃、そして今の株式投資との意外なつながりをお伝えします。→【こちら】




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