東京エレクトロン、33倍——売らなかった理由と窓際族だったから勝てた話【後編】
こんにちは、前田嘉一です。
前編では1997年に東京エレクトロンの府中市オフィスを初訪問した話を、中編では2001年のうつ病から株式投資への転身と、2008年リーマンショックの恐怖をお伝えしました。
この記事では、コロナショックを乗り越えて2026年5月についに33倍になった話と、なぜ窓際族だったから勝てたのかを正直にお伝えします。
コロナショックでも売らなかった——2度目の試練
アベノミクスで「守護神」になっていた
リーマンショック後、東京エレクトロンの株は2013年のアベノミクスから上昇し続けました。
2020年のコロナショック前には、株価は7,000〜8,000円で推移していました。
2004年の取得単価から見ると、すでに4〜5倍になっていました。
ヤフーファイナンスの損益欄はいつも青文字——含み益の状態。
東京エレクトロンを軸に据えておけば、投資金額全体でマイナスにならない。
つまり株式投資は成功している、という確信がありました。
これが私の「守護神」でした。
「会社では評価されない私が、実は資産家だ」という優越感
このころ私は、窓際族でしたがちゃんとした給与・ボーナスをもらっていました。
節約しながらでしたが、それで十分暮らせていました。
さらに株式資産は1億円を超えており、会社を辞めようと思えば辞められる状態でした。
「会社では評価されていない私だが、実はまわりよりも資産もあり稼いでいる」という優越感がありました。
この優越感が、窓際族としての辛さを埋め合わせていました。
同時に、会社にいることで投資で失敗しても「ただの窓際族」というレッテルで済む「安全圏」も守っていました。
「変わる勇気」ではなく「変わらない安心」への執着でした。
株式投資をしていることは、会社内では2001年から一言も話しませんでした。
妻にもぼんやりと知っている程度で、詳しい損益は話していませんでした。
「常に成功者であること」が、窓際族という無力な現実に対する唯一の精神的支柱でした。
コロナショックで「売ろうか」と思った瞬間
2020年2〜3月、コロナショックで持ち株がすべて下がりました。
東京エレクトロンも8,000円から6,000円ほどに下落しました。
このとき、一瞬で「売ってしまおう」という衝動がありました。
でも「売れない(売ると失敗とみなされる)」という理性との戦いがありました。
利益があるうちに売ってしまおう——そう考えました。
でも売ると、ポートフォリオ全体がマイナスになってしまう。
マイナスは「失敗」を意味する。
いつも一人で孤独にやってきたから、いつでも成功した状態でいたかった。
東京エレクトロンという守護神を手放すことは、自分自身の守りを失うことを意味していました。
この「精神的な依存」が、合理的な判断を麻痺させていたかもしれません。
結果として3月中旬から株価が戻り、ポートフォリオ全体でもマイナスにはなりませんでした。
東京エレクトロン様々でした。
コロナで気づいた「半導体の未来」
2020年、勤務先はすでに上場廃止となり、新設会社へ移っていました。
ノートパソコンも支給されず、携帯電話だけでテレワークが始まりました。
このとき、「VPN接続」と「クラウド」について自分で勉強しました。
窓際族だったから、会社のためではなく自分の投資のために勉強できました。
ネット環境があればどこでも仕事できる時代が来る。
そのために必要なのはノートパソコン、その心臓部が半導体、それを作る機械を作っているのが東京エレクトロンだ——これはすぐにわかりました。
東京エレクトロンが勝ち続けられるか、日本企業の宿命として負けてしまうのか。その葛藤はありました。
でも、1997年に府中市で感じた衝撃と直観が「勝てそう」という確信を上回っていました。
会社の給料で生活できていたから、無理に利益確定させる必要はありませんでした。
コロナでは特に動かさず、守護神として君臨し続けました。

2026年5月——ついに33倍になった日
「すごい」より「当たり前になった」という感覚
2026年5月11日、東京エレクトロンの株価は最高値53,870円をつけました。
2004年の取得単価1,600円(買い増し後の平均)から計算すると、33倍です。
含み益は1億円を超えています。ポートフォリオの4割を占める堂々の第1位です。
でも、33倍になった瞬間の感覚は「すごい」ではありませんでした。
「当たり前になった」という感覚でした。
自分が特別な人間になったという高揚感よりも、「これは運の結果に過ぎない」という虚無感でした。
おかげさまで2022年に資産2億円で早期退職FIREでき、現在は3.2億円まで増えています。
東大阪の町工場の路地裏にいた少年を、ここまで連れてきてくれました。
なぜ今でも売らないのか——「信念の崩壊」が怖いから
今でも売ろうという選択肢を考えることはほとんどありません。
利益確定の機会を逃すリスクよりも、「売ってしまえば、自分の信念が崩壊する」という精神的リスクの方が怖いからです。
調べないと不安なのです。
強い精神力で持ち続けているのではなく、むしろ逆で、不安で恐怖だから、一つひとつ調べてその不安を消していく——それが持ち続けられる理由です。
中国勢(NAURA)の台頭という脅威
現在、中国発のライバル「NAURA(ノーラ)」が台頭しています。
この業界では2位になったら終わりです。
ニコンやキャノンがそうでした。
半導体製造装置の技術は、良い意味で「尖り続けること」が必須の世界です。
東京エレクトロンの研究開発費の投入額と、最先端で居続けようとする意志があれば、株価は1/33になりにくいと思っています。
でも、油断は禁物です。東京エレクトロンが2位になったとたんに、私の投資人生も終わってしまう恐怖があります。
だからこれからも研究開発費の額とROEのチェックは続けます。
「東京エレクトロン教の信者」でありながら、しっかりと論理的に調べ続けること。それが今の私のスタンスです。
「破壊者」を求め続ける理由
私は常に「破壊的イノベーション」を起こす企業に注目しています。
かつての勤務先は、高速道路や橋梁が発達するほど衰退する会社でした。
「自分が破壊されないか」という恐怖が、逆に「破壊者(イノベーター)を求め続ける」動機になっているのだと思います。
コンピューター→半導体→半導体製造装置——この連鎖の最先端に東京エレクトロンがいる。
その信念が、22年間この株を持ち続けさせています。
窓際族だったから、勝てた——本当の理由
もし出世していたら、持ち続けられなかった
2001年にうつ病になり、2022年に退職するまで21年間窓際族でした。
会社ではまさに空気のような扱いでした。
でも今、振り返るとこう思います。
もし出世していたら、東京エレクトロンを33倍になるまで持ち続けることはできなかったと思います。
理由は3つあります。
忙しくて株の勉強ができなかった。
出世した同期は毎日残業でへとへとでした。
四季報のCD-ROMをエクセルで分析する時間など、どこにもなかったはずです。
生活費が株に頼る状況になっていた。
窓際族だから毎月給料が入り続けました。
だから含み損の中でも「食べていける」という安心感がありました。
出世して責任あるポジションにいれば、株で損した分を給料で補填する発想になって、利益が出たらすぐ売っていたはずです。
暴落時に恐怖で動けなくなることが、結果的に「売らない」につながった。
もし冷静に判断できる人間だったら、リーマンショックで損切りしていたかもしれません。
「失敗しないまま逃げ続けた」が投資人生
リーマンショックもコロナショックも、恐怖で何もできませんでした。
「失敗しないまま逃げ続けた」——これが私の投資人生です。
現在の3.4億円は、積極的な戦略の結果ではありません。消極的な「逃げ」の結果です。
- うつ病になった。
- 窓際族になった。
- 恐怖で売れなかった。
- 怖くて「買えないほうが安心する値段」でしか注文を出せなかった。
すべて「弱さ」と「失敗」でした。
でもその弱さが、結果的に正解を生みました。
「弱さ」は捨てなくていい
もしあの時、東京エレクトロンが暴落して崩壊していても、私の人生と精神は「窓際族」という場所が救済の柱になっていたはずです。
21年間、その柱があったからこそ、株を持ち続けられました。
私は「弱さ」や「失敗」でここまで来ました。
あなたの「弱さ」や「失敗」は、武器なのかもしれません。
捨てなくていいのです。
ありのままの自分で、相場と向き合ってください。

まとめ:3本を通じて伝えたかったこと
前編・中編・後編を通じて、東京エレクトロンという一つの銘柄との22年間をお伝えしました。
- 1997年、営業担当として初訪問し「半導体製造装置メーカー」の実態に衝撃を受けた
- 2001年、うつ病で窓際族になり、株式投資を人生の柱に決めた
- 2004年、震える指で最初の注文を出した
- 2008年、リーマンショックで株価が1/3になっても、恐怖で売れなかった
- 2020年、コロナショックでも守護神として守り続けた
- 2026年5月、東京エレクトロン、33倍になった
強かったからではありません。
弱かったから、ここまで来られました。



東京エレクトロン、33倍について、そしてブログのご感想などがあればお待ちしています。
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