東京エレクトロンの株、2001年うつ病になり窓際族になった私が2004年に初購入、その理由とリーマンショックの恐怖【中編】
こんにちは、前田嘉一です。
前編では、1997年に営業担当として東京エレクトロンの府中市オフィスを夜通し訪問し、「半導体製造装置メーカー」という実態に衝撃を受けた話をお伝えしました。
この記事では、その4年後——2001年にうつ病になり、窓際族になった私が、なぜ東京エレクトロンの株を選び、2004年に最初の注文を入れたのか。
そしてリーマンショックという最大の試練をどう生き延びたのかをお伝えします。
2001年、うつ病——窓際族で投資家として生きると決めた年
体が動かなくなった日
2001年、32歳で私はうつ病になりました。
猛烈社員として働き続けた末の強制ストップでした。
そして療養中に出会った一冊の本——R・キヨサキの「金持ち父さん貧乏父さん」が、すべてを変えました。
「資産はポケットにお金を入れてくれるもの、負債はお金を奪うもの」という考え方に、頭から足の先まで衝撃が走りました。
初めて「お金持ちになる方法」が書かれた本に出会った瞬間でした。
そこからサラリーマンを続けながら、窓際族で株式投資をすることに一本化しました。
まだ投資家一本では不安があったからです。
窓際族という扱いが21年間続いた
うつ病がきっかけで窓際族を希望し、会社も辞令を出しました。
私は株式投資でお金持ちになれる可能性への解放感で、内心うれしかった。
でもまわりの目は冷ややかでした。
すぐに「終わった人」「燃え尽きた人」という扱いになりました。
これは21年間続きます。
資産を増やすこと——それがうつ病という脆弱な自分を支える唯一の柱でした。
最初の3年間——「爆益情報」に飛びつくだけでは勝てなかった
窓際族で株式投資、何をやっているかわからなかった
窓際族で時間ができ、図書館の本や新聞、証券会社の情報、ブログで知識を積んでいきました。
でも夕刊紙の「爆益情報」や、証券会社の「ここだけの話」銘柄に飛びつくだけでは全然勝てませんでした。
儲けようと焦って、次々と株を買ってしまう。
いつも「こんなはずじゃなかった」という言い訳ばかりでした。
「自分はまた失敗した」という自己否定が、うつ病の再発につながるのではという恐怖もありました。
グルグル回る葛藤
投資家を続けたい。
でも才能もなく、お金も減る。
辞めなければいけないかもしれない。
自分の意志と現実のギャップがグルグルと頭を回り続けました。
それが嫌で、真剣に株の勉強をすることにしました。
四季報データ通読——「勤務先と真逆の会社」を探した
資産・負債の観点で会社を見るクセがついた
「金持ち父さん貧乏父さん」から学んだ「資産をたくさん持つ会社、儲かっている会社、海外で稼いでいる会社」を軸に、銘柄を探し始めました。
私が注目した財務指標は3つです。
- ROEが高い=効率的に儲かっている会社
- 利益剰余金が多い=つぶれない会社、チャレンジできる余力がある
- 海外売上比率が高い=不況な国内に依存していない
四季報のCD-ROM版とヤフーファイナンスでデータを入手し、エクセルにコピペしてソートしながら分析しました。
そして、たくさんの会社を並べ替えて「資産」「負債」の量と割合を確認していく。
とても楽しかった。
砂漠の砂が水を吸うように、情報が頭に入ってきました。
窓際族でヒマで時間があったからできた作業です。
そして窓際族という現実からの逃避でもあったかもしれません。
勤務先と真逆の会社を見つけた
私の勤務先は、資産がなく、負債が多く、国内販売オンリーでした。
そして四季報を読めば読むほど「ここからの復活は難しい」とわかりました。
だから覚悟を決めました。
「会社で空気みたいに生きて、株式投資のほうで資産を積み上げていく」。
これが私の人生戦略になりました。
分析の結果、条件に合う銘柄として浮かび上がったのが「東京エレクトロン」「TDK」「任天堂」「キーエンス」「シマノ」「ファナック」「村田製作所」でした。
でも、どれも一単元が50万〜100万円と高かった。
まだまだ小粒な投資家だった私には、全部は買えませんでした。悔しかった。

なぜ東京エレクトロンだったのか
東京エレクトロンは2年前まで営業担当だった「なじみ」
候補銘柄の中で、東京エレクトロンだけは特別な感覚がありました。
2年前まで営業担当だったからです。
他の投資先より「内情を知っている」という自信がありました。
そして何より、この会社は私の「憧れ」でした。
勤務先を東京エレクトロンのように改革したかった。
その夢が叶わずうつ病になった——そのリベンジの気持ちもあったかもしれません。
「人生の正当性を証明したい」という思い
勤務先と東京エレクトロン。
将来、どちらが勝つか。
そして四季報のデータを読めば読むほど、東京エレクトロンのほうが勝つ確率が高いとわかっていました。
単なる投資の勝敗を超えた感情がありました。
「自分の人生が間違っていなかったことを証明したい」。
そんな気持ちが、東京エレクトロンへの購入目標額を他の銘柄より高く設定させました。
2004年3月——指が震えながら最初の注文を入れた
東京エレクトロンを「買ってしまった」という後悔から始まった
2004年3月、東京エレクトロンを1株2,330円で300株購入しました。約70万円の大金でした。
電話で注文を入れるとき、指と声が震えました。
「これ以上下がってしまうのではないか」「自分だけマイナス情報を知らないのではないか」——恐怖の連続でした。
購入後の最初の印象は「買ってしまった」「これでよかったのか」という後悔でした。
この会社への注文はいつも恐怖で、買っても後悔してしまう。
信じてもらえないかもしれませんが、33倍になった今でも100%の安心感はありません。
1997年の衝撃への、7年越しの答え
それでも買ったのは、1997年に府中市のビルの前で感じた衝撃があったからです。
あの日の自分への、7年越しの答えを出した気がしました。
ちょっとでも自信があって、将来性のある、ピカピカ輝いているものを持ちたかった。
ずっと自分の味方でいてほしい。そんな希望と夢がありました。
リーマンショック——1株が770円になっても売れなかった
「100年に一度の暴落」の衝撃
2008年8〜11月、リーマンショックが起きました。
私にとっては初めての本格的な大暴落でした。
それまでの東京エレクトロンは平均単価2,000円で、株価は常に3,000円前後を推移していました。
ヤフーファイナンスの損益欄はだいたい青文字(プラス)。
「守護神」のような銘柄でした。
リーマン・ブラザーズが破綻した9月、私は高をくくっていました。
「いつも通り10%下がったところで押し目買いを入れればいい」と。
危機感はゼロでした。
東京エレクトロンは一気に3分の2まで下がった
破綻の翌日から、東京エレクトロンの株価は一気に下がりました。
1,600円まで落ちました。3分の2です。
深夜にSNSを見ながら、手が震えてマウスを操作できなくなりました。パニック状態でした。
またうつ病になってしまうかもしれない——そう感じました。
医者に言われていた「パニックになったら逃げていい」という言葉を思い出し、相場から逃げました。
何も見ないことにしました。
逃げている時間が一番苦痛だった
逃げても、相場は気になりました。
2001年に「投資家として生きる」と誓ったのに、逃げている。
その背徳感がありました。
電車内の広告やニュースでリーマンショックの文字が目に入るたびに苦しかった。
逃げていた時間は1ヶ月もかかりませんでした。
相場に戻るのが怖くても、戻らないのがもっと苦痛でした。
東京エレクトロン、1株1,000円——「投資家人生を終わりにしよう」と思った夜
10月末、東京エレクトロンの株価は1,000〜1,100円になっていました。いつもの半値以下です。
「もう終わりだ」と思いました。
すべての持ち株を損切りしても200〜300万円の損で清算できる。
悔いは残るが、メンタルが持たない。
毎晩、売ることばかり考えていました。
でも、いざ売ろうとすると手が震えて、売りのボタンを押せませんでした。
「売らない」と決めたのではなく、「売れる」という事実を受け入れることが、自分の精神崩壊を意味すると無意識に判断していたのだと思います。
生存本能が「売り」をブロックしていました。
窓際族だったから耐えられた
ここで最も助けになったのが、窓際族という立場でした。
含み損の間も、毎月給料が入り続けました。
そして「最悪の場合でも、生活は守られる」という構造的な安心感が、売らずにいることを可能にしました。
出世して忙しかったら、株の勉強どころではなかった。
生活費が株に頼っていたら、含み損に耐えられなかった。
窓際族という「失敗」が、この局面での強みになっていたのです。
バフェットの言葉を「精神的な杖」にして買い始めた
「潮が引いた後、潮は満ちてくる」
全員が「売れ」と叫ぶ中、バフェットの言葉が頭をよぎりました。
「潮が引いて初めて、誰が裸で泳いでいたか分かる」——毎日誰かがブログで引用していました。
そのうち「今は潮が引いているとき。いつか潮は満ちてくる」と自分なりに解釈しました。
それはいつかわからない。
でも、潮が引き続けることはないと。
これは論理ではなく、「まだ下がるかもしれない」という恐怖を「いつか戻るはず」という希望に置き換えるための自己暗示でした。
でもその自己暗示が、次の行動を生みました。
「買えないほうが安心する値段」で恐々と注文を出した
勤務先の株価も半値になっていました。でも会社は普通に動いていた。
「潰れそうな勤務先でも潰れないなら、東京エレクトロンが潰れるわけない」。
ストップ安の手前くらいの、極端に安い値段で指値注文を出し始めました。
買えないほうが安心できる値段です。
「持ってしまう恐怖」があったからです。
でも、買えてしまうのです。
そして買えるたびに「この会社は潰れない」「1997年に感じた衝撃が正しかった」と、自分に言い聞かせながら肯定化する日々でした。
12月3日、770円が東京エレクトロンの最後の買い増し
結局、12月3日に770円で購入したのが、一連の買い増しの最後となりました。
振り返れば、なぜ売らなかったのかと聞かれても「怖かっただけ」です。
買い増しも「無理に買えなくてもいい値段で恐々注文を出しただけ」です。
「売らない」という行動は、論理的な投資判断ではなく、自分自身を守るための生存本能が導いた「無意識の正解」でした。
そして「その弱い自分」「恐怖に耐え抜くこと」を武器にしていくことが、投資家としての新たな段階への入り口だったと、今になって思います。


まとめ:うつ病と窓際族が、投資家を作った
2001年のうつ病がなければ、株式投資に本気で向き合うことはなかったかもしれません。
窓際族でなければ、四季報を読み込む時間も、リーマンショックの含み損に耐える給料の支えもなかったかもしれません。
「失敗」と「弱さ」が、東京エレクトロンという銘柄を選ばせ、売らずに持ち続けることを可能にしました。
次の記事では、コロナショックという2度目の試練と、33倍になった今でも売らない本当の理由をお伝えします。後編→(こちら)



東京エレクトロンの株、窓際族について、そしてブログのご感想などがあればお待ちしています。
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