東京エレクトロンとの出会い【前編】——1997年、府中市への夜通し営業から始まった33倍の物語
こんにちは、前田嘉一です。
東京エレクトロンの株を最初に買ったのは、2004年3月。1株2,330円でした。
2026年5月、その株価は53,870円になりました。
買い増し後の平均単価の33倍です。含み益は1億円を超えています。
でも、最初から「33倍になる」とわかって買ったわけではありません。
毎回、注文を入れるたびに「これでよかったのか」と後悔する株でした。
そして、33倍になった今でも、100%の安心感はありません。
この記事では、なぜ私が東京エレクトロンの株と出会い、なぜ売らなかったのかを、正直にお伝えします。
それは投資の話であり、私の人生の話でもあります。
1997年——東京担当という「夢」が叶った年
エリートコースの登竜門だった
1997年、入社6年目のとき、重要エリアである東京地区の担当になりました。
社内では東京担当はエリートコースの登竜門でした。
そして将来の出世が約束されたポジションとして見られていました。
それまでの私は、長野・北陸などあまり伸びしろのない地域を担当していました。
どぶ板営業で成果を上げても、地域の潜在需要がなければ限界があります。
それで東京と比べると、「都落ち」みたいな感覚もありました。
東京担当になれたとき、ようやく光が見えてきたと思いました。
一人前の戦力として認められた。ここで思い切り働こうと、本当にやる気が満ちていました。
担当リストに「東京エレクトロン」があった
東京エリアの担当先の一つに、「東京エレクトロン」の物流部門がありました。
月の売上額は10万円程度。中〜小ランクの位置でした。社内では誰も訪問したことがなく、何をしている会社かもわからない状態でした。
私の勤務先は、高速道路や橋梁などのインフラが発達すると衰退していく企業でした。そういう会社にとって、東京エレクトロンへの興味はゼロでした。

「西武グループの楽器会社が携帯電話工事をしている」——社内の認識の恐ろしさ
前担当からの引継ぎ書には、東京エレクトロンについてこう書かれていました。
「楽器のエレクトーンの会社」「青緑白のカラーリングから西武グループ」「TELから携帯電話の敷設工事」——。
つまり社内での認識は「西武グループの楽器会社の別部門が携帯電話工事をしている」でした。
何度も会議でこの発言を聞きました。私も疑いませんでした。
そして下っ端が「それは違います」と言えば、馬鹿にされてエリートコースから外されると思っていたからです。
当時はネットも発達しておらず、会議で「誰が言ったか」が正しさの基準になっていた時代でした。
部長を含め、部内全員がこの認識でした。
今思うと、非常に危険な状態でした。
夜通し高速を飛ばして、府中市のビルへ
一人で突然訪問することにした
担当になってすぐ、私は単独でアポイントを取り、手土産を買って東京エレクトロンへ向かいました。
前担当は面識がないため、同行しませんでした。
観光を兼ねた出張や、無駄な時間を避けたかった。
一軒でも多く客先に行きたい。
本業への真摯な姿勢がありました。
そして自分の営業成績を周囲に認めさせたい、存在価値を証明したい——そういう承認欲求が強くありました。
「前田さんが来てくれたから取引を増やした」という言葉が何よりも嬉しかったのです。
大阪から夜の高速を飛ばした
大阪から営業車で夜の高速道路を走り、東京の府中市を目指しました。
朝9時のアポイントでした。
府中インターから近く、多摩川沿いの場所でした。
「電話工事の資材置き場みたいな場所だろう」と思っていました。
でも、着いてみると5階建てのビルでした。
門には守衛がいました。仰々しい。
そして電話工事の資材など、どこにもありませんでした。
東京に来たのはこれまで1〜2度。
東京エレクトロンよりも、東京そのものの「すごさ」に驚きました。
最初の訪問で受けた「衝撃」
スーツとチノパンの文化の違い
担当は40歳前後の男性でした。
大阪から夜通しで手土産を持って来てくれたと、歓迎してくれました。
こちらはスーツ。向こうはカジュアルウェア——ポロシャツとチノパン。
そして首から身分証をぶら下げていました。
私の勤務先は、大した会社でもないのに格式ばかり重んじる会社でした。
東京エレクトロンにはそういう格式が必要ないという、会社文化の違いに強く違和感を覚えました。
そして同時に「これがこれからの最先端の働き方だ」という感覚がありました。
「エレクトーン」の話をして恥をかいた
商談に入ると、担当者は気さくに丁寧に話してくれました。
こちらが素人で的外れなことを話すからです。
私は初対面なので「エレクトーン」や「携帯電話」の話を持ち出しました。
相手がポカンとした表情になっても、勢いだけで話し続けました。
東京エレクトロンの業務内容を知ったとき、自分の無知さへの罪悪感で、ひどく恥ずかしい思いをしました。
前担当や周囲の話を鵜呑みにしすぎていた。
疑問に思ったことは自分で調べて確認するプロ意識が、まったく欠けていました。
「半導体製造装置」——初めて知った世界
打ち解けてきた担当者が、一から教えてくれました。
ハイテク部品を作る機械を作っている会社だということ(今でいう半導体製造装置メーカー)。
山梨・熊本で業務拡大の計画があること。
機械の注文が来るときは引手数多になるが、注文がないときはほとんどないという半導体サイクルの話。
だから常に新製品を作り、最先端を走り続けなければならない宿命があること。
「すごくリスクの高い商売だ」というのが最初の印象でした。
でも同時に、大阪の形式ばった会社文化への「違和感」と、東京エレクトロンの「最先端・カジュアル」な文化への「憧れ」が、私を突き動かし始めました。
次回以降の訪問のために、ハイテク業界を自分で徹底的に調べようと決めました。

帰社後の部内会議——「全否定」が孤立を生んだ
得意げに前担当を全否定した
帰社後の部内会議で報告しました。
「エレクトーンや電話工事の会社ではなく、ハイテク部品を作る機械を作っている会社だ」と。
今までの引継ぎ内容を、得意げに全否定してやりました。
自分の正しさを証明したかった。
前担当の無能さを暴露したかった。
自分の努力を周囲に認めさせたかった。
エリートコースだと思っていた者たちへの優越感を見せたかった
——そういう気持ちが全部ありました。
前担当と課長の目がしょぼんと落ち込んでいるのを覚えています。
でも頭の中では、二人とも「復讐の炎」がメラメラと燃えていたと思います。
その「全否定」が、うつ病の遠因になった
振り返ると、あの会議で得意げに全否定したことが、のちの孤立とうつ病の遠因になりました。
でも当時の私にはわかりませんでした。
部内に敵を作ってしまったのです。
みんなの前でなくても、廊下や自販機の前で軽く事前報告すれば良かった。
「結果さえ出せば人間関係は二の次」という短絡的な成功思考が、私を孤立させていきました。

東京担当3年間——その後の東京エレクトロン
私が担当になってから東京エレクトロンの売上は伸びました。
情報通り山梨・熊本の業務拡大が寄与し、中〜小ランクから中ランクへと上がりました。
でも結局、東京担当は3年で終わりました。
会社に反発しましたが叶わず、次は東北・北海道の担当に変わりました。
高いノルマだけかけられ、東京のようなやりがいは感じられませんでした。
その後、東京エレクトロンの機械販売が一巡したのか伸びが鈍化し、売上は元の中〜小ランクに戻っていきました。
正直に言うと、東京エレクトロンの半導体サイクルの好況に、私がたまたまうまく乗れただけだったかもしれません。
そしてそれが原因で、社内での孤立という「人間関係の失敗」を生み出してしまいました。
でも、この経験が私に一つの確信を芽生えさせました。
勤務先の「衰退」と、東京エレクトロンの「リスクはあるが輝いている未来」。
どちらに賭けるかといえば、東京エレクトロンのほうに賭けてみたい——。
その感覚が、このとき静かに生まれていました。

まとめ:東京エレクトロンとの出会い、「恥をかいた日」から始まった
東京エレクトロンとの出会い、それは私が「エレクトーン」の話をして恥をかいた1997年の府中市から始まりました。
「最先端を走る会社」への憧れと、「形式ばかりで衰退していく自社」への焦り。
この2つの感情が、後に私を投資家として突き動かすことになります。
次の記事では、2001年にうつ病になり、窓際族になった私がどうやって東京エレクトロンの株を最初に買うに至ったか——そしてリーマンショックという最大の試練をどう生き延びたかをお伝えします。→中編(こちら)




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コメント
最先端を走る会社への憧れと、形式ばかりで衰退していく自社へのあせり。ここ同感ですね、私の20代もそうでした、でもいつの間にか長いものに巻かれましけどね。笑
ありがとうございます。歳を重ねるごとに背負うものも増えてきますからね、私もまわりもそうでしたよ。